本日は、コビトハウス・オレンジハウス
放課後等デイサービス営業日でした。
さて、
これまで「療育」という言葉の起源を
治療教育学という概念に求めて
ドイツ治療教育学の歴史研究−治療教育学理論の狭義化と補助教育学の体系化−
岡田英己子(1993)勁草書房
を拾い読みしてきました。
そして、療育という言葉は
いろんな意味に使われやすい
ある意味要注意な言葉であること、
だから使うときには
より注意深く、意識的に
使っていこうと考えるようになりました。
岡田先生、ありがとうございました!
と思って本を図書館に返そうとしたら
なんかまだ気になるところが。
「まだあるよ、大事なところ。」
「ちゃんと読んでね。」
と本が言っています。
負の遺産
それは岡田氏が「負の遺産」と表現した、
ドイツ治療教育学が関わった過去の失敗についてでした。
好き勝手に自分たちの都合のために
治療教育学の中身を捻じ曲げていたことと
当時の政治情勢や優生学の台頭とも絡み合い、
考えるだけで身震いするような
結果につながりました。
超ざっくり説明すると
- 治療教育学は、優生思想と結びついたよ。
- 生活に困った教員層がナチズムを支持したよ。
- 障害を持つ子どもたちを殺すための施設が運営されたよ。
それが、負の遺産の中身でした。
あまりのことに言葉が出ません。
つらい。
くるしい。
でも、見た。
おれ、負の遺産の中身、見た。
今まで知らずにいたことを
知ることができてよかった。
岡田先生ありがとうございました。
ここまで読んでくださった方にもお礼申し上げます。
そして、今日もコビトハウス・オレンジハウスを
ご利用くださり、本当にありがとうございました。
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児童デイサービス コビトハウス・オレンジハウス
合同会社コビトランド
岩見沢市一条東16丁目10 電話 0126-38-4192
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ナチが政権を掌握する以前の段階で、即ち1930年代初頭から、補助学校界ではすでに優生学的治療教育学観が急速に支持され出し、ナチズム期補助学校政策を率先して実施する動きが主流となってくるのである。実際上、1930年9月選挙のナチ党の一大躍進は、教員の属する中間層の支持なしにはありえなかった。彼らの大半が、生活不安や先行きの見通しの不明瞭さから安易にナチ党に接近していったのであり、ヴァイマール期末期ナチ・イデオロギーを熱烈に支持していく保守革命の新勢力となるのである。(p.400)
連盟大会で露骨な優生学的治療教育学見解が出てくるのは、1926年エーゲンベルガーの補助学校法制定要求の講演を契機にしている。法案内容をめぐる論議の中で補助学校教員シュヴェンダー(Schwender,H.)は、「補助学校は民族の健康に奉仕したいし、民族の健康を擁護する。補助学校法の中に人種の悪化を防ぐことができるような規定を取り入れることに、大賛成である。(中略)」との主張をしている。(p.401)
1930年頃から教員や社会事業従事者達の間で、不要な効果の薄い分野の経費はカットし、効率的な質の高い社会政策・教育政策を推し進めるべきだとの優生学的治療教育観が心情的に支持されていった。先に全貯蓄を失い、経済的にはプロレタリアートに転落していた中間層に属する彼らは、高まる生活不安・危機意識から、政治行動においても自らの職場においても、この時期極めて急進化した選択へと突っ走っていくのである。(p.402)
こうした優生学思想を大々的に実施したのが、ナチ障害児者政策なのである。具体的には断種と安楽死計画が挙げられる。これまでは、補助学校教員は断種・安楽死計画に加担していなかったとの見解が一般的であった。が、近年著しく進展しているナチズム期社会政策史研究や施設史研究の成果は、教会関係者や社会事業従事者・障害児教育教員達の協力なしに、断種や安楽死計画用書類が整えられなかった事実を、次々と明らかにしている。(p.405)
児童安楽死計画は、実質的にはポーランド侵攻を機に1939年9月1日の日付でなされた−実際の命令はその一ヶ月前に出された−成人安楽死計画よりも、早く組織されている。1939年2月ヒトラー直属の医師を中心に専門委員会が設けられ、児童安楽死計画の具体的な審議が始まる。同年5月には早くも審議を終了すると共に、総統官房が直接この計画の表に出ないようカムフラージュを凝らすべく「遺伝及び素質に基づく重度障害の学問的な診断のための帝国委員会」に具体的な仕事を託している。そして1938年8月18日に、関係者に密かに内務省機密回章として、児童安楽死計画の実施手段が伝えられている。この内務省機密回章は、奇形・先天性精神薄弱・盲・聾等の新生児に対して、担当助産婦・医師に届出義務を課し、更に各地域の保険衛生局医師の手を経て、障害新生児集計を出すことを命じたものである。委員会の活動は、当初内務省機密回章に従って、新生児と3歳までの幼児で親と共に暮らしている子供の鑑別診断に限定されていた。が、ほどなく12歳までに対象児が拡大される。こうして登録された子供を、委員会は随時選出し、親の承諾なしに公衆衛生局保健婦・家族ケースワーカーの手を介して、各地の安楽死計画用に設立された児童施設・クリニックに送り殺害したのである。(p.432)
1940年7月シュタインホーフは児童安楽死計画用施設「ウィーン市立児童精神病クリニック」を設置する。これはベルリンの安楽死計画最高責任者達によって、約30あったとされる同種の児童部門クリニックのモデル施設と見なされていた。以後、シュタインホーフでは、敗戦に到るまでドイツ各地の障害児施設から移送されてきた児童に対して、餓死や投薬・注射、冬期ならば肺炎に到るまで放置し死亡させるという手段を用いていった。ドイツの食糧事情は占領地からの収奪的食糧調達の成果で、1944年に入ってもなお一定の良好さを保っていたにもかかわらず、餓死は障害児者安楽死計画でもっとも頻繁に用いられた手段であった。(p.109)